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(無題)

 投稿者:まさし  投稿日:2010年 6月20日(日)00時32分0秒
返信・引用 編集済
   相撲協会の不祥事がまた起きてしまいました。今度は暴力団がらみの野球賭博だそうです。今回は名古屋場所の開催が危ぶまれるほどの事態のようです。

 この掲示板のメッセージも、もっぱら悪用・逆用しかねない人たちに届いてしまうという現況は如何ともし難く、残念ながら打ち切りとさせて頂くことに致しました。

 別途、カルト・洗脳被害者向けの掲示板を立ち上げるかもしれませんので、ときおり覗いてみてください。
 
 

(無題)

 投稿者:まさし  投稿日:2007年10月13日(土)00時50分23秒
返信・引用
  (方便としてよく引用する角界が、不祥事に揺れているため、暫らく休止いたします。年明け頃に再々閲覧してみてください)  

(無題)

 投稿者:まさし  投稿日:2007年 8月27日(月)22時11分50秒
返信・引用
  (しばらく出稼ぎ巡業にでることになりましたので、1ヶ月ほど休場といたします)  

「序品 第一」 その4

 投稿者:まさし  投稿日:2007年 8月17日(金)02時03分35秒
返信・引用
   復た菩薩摩訶薩、百千万億人と倶なりき。大威徳あること、大龍王の如く、名称普く聞こえて、衆に知識せられる所、施戒清浄にして、常に扶持を楽い、忍行・精勤無量劫を経て、諸の静慮を超え、繋念現前し、慧門開閘し、善く方便を修す。

(また、菩薩摩訶薩が百千万億人とともにあった。その偉大な威徳は大龍王のようであり、名はあまねく聞こえて、人々にこのように知られていた。「施行・戒行の清浄さは、それを実践することにおいて楽でさえあり、忍行・精勤行も無量のときを経て諸々の禅定を超え、一貫した思念が露となってその弁別・認識を開き述べ、善なる方便を修めるている。)

 恐らくは、原語においても、菩薩摩訶薩が百千万億人いるのか、菩薩摩訶薩が百千万億人の人々とともに薄伽梵のそばにいるのか、分からない表現になっているのでしょう。衆生皆菩薩と言うと、耳に優しい表現に聞こえますが、私はその考え方には反対です。

 そこにはまた、おのれの仏性を悟らぬが故にという、厳しい意味が含まれているはずだからです。思い出すがいい、あなたはそのままでブッダである。慧能禅師をはじめ、多くの求道者が口にしたその言葉にこそ、私はより深い真実性を見い出せるように思うのです。
 

「序品 第一」 その3

 投稿者:まさし  投稿日:2007年 8月16日(木)01時20分29秒
返信・引用
   よく天の声などと言いますが、天の声ばかりを聞こうとし、地の胎動に無関心なのが左道であります。私は北半球の地に住む者なので確かなことは言えませんが、もし仏教が南半球で成立していたとしたら、あるいは、左肩回りが行儀となったのかもしれません。

 いずれにしろ、意味不明な迷信的信仰儀礼とは一線も二線も画す行儀であることは確かでしょう。前述のとおり、妙法蓮華経が大地を浄め、鎮めることを発願する経文であるとすれば、金光明経は瑠璃を浄め、豊饒の実りをもたらすことを発願する経文であるのです。

 これらはまた、無念のうちに埋没した生きとし生けるものの魂たちの、鎮魂と懺悔と救済の経文でもありましょう。白隠禅師は言います。「地蔵菩薩と申すのは、心地の地蔵で御座るぞや。心の奥の深ければ、無量不可思議なる故に、地に蔵(かく)るると謂れふぞ」と。

 序品は続きます。薄伽梵のうたかたの夢はとどまることを知りません。角界に喩えれば、夢うつつの総見の儀は、親方を引退したものの年寄り株を売ることなく、塩漬けにしたままの年寄り衆の出番となる次第です。仏道では、それをして菩薩衆と言うのでしょう。
 

「序品 第一」 その3

 投稿者:まさし  投稿日:2007年 8月10日(金)23時41分56秒
返信・引用
   仏教には、左道という言葉はあっても右道という表現はありません。「左道を過ぎては左道を滅し、右道に渡しては右道を破却す」という表現ぐらい、あってもよさそうな気がしますが、その手の表現もついぞ見聞きしたことはありません。

 左道と右道とがあって、政党政治の左派と右派みたいなものだと思っている人々がいるとすれば、それこそ外道の何よりの証しとなりましょう。古い仏教語事典の中には、左道を引くと「耶蘇教」とあったりしますが、それもまた正しいとは言えないでしょう。

 左道とは独善・独尊に陥らないよう自己を調伏するのではなく、不遜なまでに他者を折伏し、己利を逮得するのではなく、絶対神のように自在に我欲を実現することに血道をあけることに他なりません。それ故、釈迦十一大弟子は左道にあるとは言わないのであります。

 では何故の左であるのか。その浅解は差し控えておきましょう。ただ経文は言うのです。九万八千人の比丘らは(仏所を)右肩回りに三度巡ったと。左肩回りに巡るのはご法度であります。ご法度とされる理由は色々あるでしょうが、縁起担ぎだけではないでしょう。
 

「序品 第一」 その3

 投稿者:まさし  投稿日:2007年 8月 6日(月)23時38分43秒
返信・引用
   天に天の時が在り、人に人の時が在り、地には地の時が在る。仏教の時間観は様々な切り口から成されますが、相対を超え、位相を以って論じられることがあることは、ご存知の方も少なくないでしょう。その時間観は仏教成立以前からあったのだろうと私は思います。

 水に気の体があり、水の体があり、氷の体のあるが如しであります。世界最高峰チョモランマの登頂に成功した日本の若手登山家が言っておりました。地球には地球の時間があるんです、わかりませんかと。わかる人々が太古の昔からいたとしても不思議はありません。

 現代人はただただ天を仰ぎ見るばかりで、地の胎動を知ろうともしなくなってしまいました。用なくして体なしと言わんばかりです。中つ国とは、天の時を刻む世界、地の時を刻む世界の間にあるからこそ、また中つ国と言うのではないでしょうか。

 闇と光、白と黒、右と左の間にあるから中つ国だというのでは、中陰、中有と何ら変わりありません。自ら道を歩まずして左道を敵視する者の早合点でありましょう。司馬遷の史記によれば、中国の謂れとなっているのが、まさにこの中つ国の呼び名であると言います。
 

「序品 第一」 その3

 投稿者:まさし  投稿日:2007年 8月 4日(土)00時04分6秒
返信・引用
   頭上、頭頂と言うとおり、人体の頂は頭にあるとするのが普通です。仏足に頂礼するというのは、仏が逆立ちしているか、頂礼する者が顚倒しているか、あるいはしかけているか、または顚倒から直りかけているか、そのいずれかとなりましょう。

 時計の針もまた上下を逆に致します。もし針を戻すことができない羅針であれば、針はゆっくりと進めるのがよろしかろう。硫黄島のような修羅場をくぐらねばならないと、誰が決めたでしょう。決めた者がいるとすれば、それは硫黄の匂いを漂わす邪鬼であります。

 独善に陥ることなく、独尊と言われることもなく、善道を歩むことが仏道であります。但し、産湯に浸かって天上天下唯我独尊と言っている間は、短くすることが肝要でありましょう。産湯が天然の温泉であれば、硫黄もまた少々混じるであろうが故にであります。

 経文は続けます。(仏所を)右肩回りに三度巡り、(仏所を)退いて(薄伽梵の元に)一面に座したと。この三度はなかなか浅解とはいかない行儀のようです。三度笠の三度と異なることは確かです。強いて言えば秒針・分針・時針に例えられるのでしょうか。
 

「序品 第一」 その3

 投稿者:まさし  投稿日:2007年 8月 3日(金)01時29分7秒
返信・引用
   東京国立博物館で開催されている「京都五山禅文化展」では、一幅ごとに書き分けられた十六羅漢図絵が出展されておりました。どこの所蔵か見ませんでしたし、八幅しか見た記憶がないのですが、そのうちの三幅は、羅漢の近くに邪鬼が忍び寄っている構図でした。

 しかし、これらの阿羅漢たち(アーナンダは別として)は、十一大弟子を含めて偉大な声聞であったというのです。そして各おの哺時に於いて、定より起ったというのです。定より起つのは当然として、なにゆえの哺時か、誰がための哺時か、それが問題となります。

 哺時を現代的な時刻に直すと申の刻の午後4時、または午後3時から5時の間ということになります。しかし一部の仏教語事典と同様、私は夕方の三時と解きましょう。午の刻を一時、未の刻を二時と解くが故にであります(亥の刻の六時が真夜中の零時となります)。

 比丘にして阿羅漢である衆らは、その哺時に定より出でて仏所に詣で、仏足に頂礼したのです。仏所は、素直に釈迦のことであると解しておいてよいでしょう。その仏所に詣で、そして「仏足に頂礼」したのであります。これもまた名訳と言えるのではないでしょうか。
 

「序品 第一」 その3

 投稿者:まさし  投稿日:2007年 7月28日(土)01時27分26秒
返信・引用
   阿羅漢果を得ることが善なのか、彼岸に至ることが善なのか、それは問うてはならないことです。金光明経も、それについては無記でありましょう。明確に言えることがあるとすれば、仏道は相撲道と同じく、ひとつの道を示すに他ならないと言うことでしょう。

 頭があれば、ちょっとその頭で考えてみれば済むことです。人類すべてが相撲道を歩んだら、この世はいったいどうなるでしょう?。水をがぶ飲みする太った大喰らいばかりとなれば、たちまちのうちに水不足と食糧難に見舞われるに違いありません。

 釈迦は人類力士化計画などを目論んでいた訳ではありません。ひとつの道を示そうとしたに過ぎないでしょう。顕教と言えども、結縁と僧団への参入儀礼を欠かさなかったことは当然でありましょう。当たり前と言えば、あまりに当たり前のことです。

 仏伝によれば、第一結集には五百人の阿羅漢が集ったと言います。事実がどうであったかどうかはさておき、金光明経は説くのです。薄伽梵はうたかたの夢の中で、九万八千人の比丘とともにあり、ただアーナンダ一人を除いて、それはみな阿羅漢であったと。
 

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